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天正二年の八月末、武田勝頼が遠州に万を越す軍勢を送った。俗に言う天竜川の小競り合いである。京に入って御門ににらみを利かせている織田氏よりも信玄亡き後の武田の動きが気にかかるからと、学園長は、きり丸を偵察に向かわせた。最上級生にもなれば、このような偵察の命が下るのは当たり前だった。きり丸は、いつものように、「学園長が濃州の蕎麦が食べたいだけだろう」と思った。きり丸の得意な活動は、隠密諜報の類だった。学費のためにさまざまな職業をこなしていたためか、人当たりがよく、誰よりも要領よく策を講じることができる。バイトの経験が生かされるのは、当人としては複雑な心もちであったが、芸は身を助けるという諺のとおり、彼の隠密活動は成功の割合が高く、学園長も評価してのことであった。忍術学園がある畿内から、一ヶ月間、針屋や油屋などの行商人に化けて、足早に、尚且つ、のらりくらりと遥々遠州掛川までやってきた。今年は雨が少ないためなのか、綿花の出来高がいいらしい。針が売れて、きり丸は嬉しかった。針で貯まったお金は、半分は学費に、半分を元手にして、薬売りを始めた。
掛川の城下は、武田が古府中を出発したとの報せを受け、馬だの兵糧だのといった篭城への備えをしていて慌しい。木材のほかにも、竹や城壁を補強する岩や土も運ばれている。城下から多少離れた村々でも、人々が戦に巻き込まれるのを恐れて、血縁を頼って逃げだすものも多いようだ。ここ数日、無人の家屋が、日を追うごとに増えている。荷が車で運ばれていくたびに、黄臭い土が空に舞う。水気の無い砂埃が喉や目に入って、不快だ。首にへばり付く髪が不快だ。市の端に腰を下ろしていると、声をかけられた。
べっぴんさんやなあ
そっちは暑いから、こちらに来なさいな
姉ちゃん、薬かい
ええ
どっから来たね
浜松の方から
ほう、浜松
家康さまは、良い殿様ですよ
そうかい、いやねえ、逃げてばっかりだよぉ、あの殿様は
年貢も安くはないしねえ
ちょいと、腹下しの薬をくんねぇかい
はい、どなたか、病ですか
助かるよ、薬売りも久しぶりだ
女の薬売りってのはあ、好いねえ
はあ
お前さん、きれいだし、うちに嫁に来ねえかぃ
嫌だよぉ、この人はすぐこう言うんだから
気にしなさんな
きり丸は、商売用の笑みを向けた。いやな客に捕まったと、きり丸は内心舌打ちをした。全身にこびりついた砂埃が不快だ。首筋にじりじりと焦げ付くような日差しが不快だ。きり丸は、城下を離れ、水のある場所へ向かった。井戸でも川でもどこでもよかった。唯、土ぼこりが不快だった。
悪いことはしねえ、家にこねえかい
またの機会に
しつこいねえ、あんたも
興ざめな姉ちゃんだねぇ、もう直ぐ武田がせめてくるってぇのにのらくら
武田が、ですか
そうらしい
ここ最近はその噂で持ちきりだ
尾張のうつけの所業が気に食わないってんで、うつけの仲間の遠州を攻めるんだとよ
この時期に
ひどいもんだなやあ
きり丸は、上げかけた腰を戻した。辛抱強く井戸端会議に相槌を打った。昼ごろから始まったおしゃべりに適当に相槌を打ちながら、夕方になった。こんなに簡単に武田の情勢が分かってしまうとは思っていなかった。国境の有力豪族、地侍には武田の乱破衆が寝返りを進め、農民には「武田の領民になれば徳川よりも年貢の割合が少なくて済む」という触れを出したということだ。武田には、金山はあるけれども近年はめっきり生産量が減り、財政は決して余裕があるわけではない。武田が、長篠を攻めるための懐柔策である。勝頼になってから、親戚連中と家臣団との間に溝が出来ているということだったが、勝頼を軸に武田がまとまってきたことの現れだろう。これだけ分かれば、きり丸に長居は無用であった。ただ、すんなりと必要な報せが舞い込んできたことが多少気がかりであった。しかし、結局のところそのように簡単に手がかりをつかめるということが、武田の懐柔作戦が功を奏したということになるのだろうか。武田に着いている乱破衆の頭は誰だろうときり丸は興味をそそられた。姉ちゃんも早いとこ家に戻りなあね、と反物売りの気の好い年増や籠売りの年寄りが、きり丸を見送ってくれた。はい、とにこやかに返事をした。一人のむさ苦しい輩が、きり丸に再度言った。
今日は、泊まるところ、あんのかね
寺にでも泊めてもらおうかと
我が家に泊まらないかい
結構ですよ、お邪魔でしょう
きり丸は、やっかいな相手に引っかかったと内心、舌打ちした。男は腕をつかんで来た。普通ならば、振り払える程度だったが、男だとばれるわけにはいかなかった。きり丸は、つかまれていない袖口を口元に当て下を向いた。市は、夕方。人の群れが足早に去っていく。この男を一人蹴倒したぐらいで、早々騒ぎにはならないだろう。しかしここは徳川と武田の境界線である。本気で逃げなければ、こちらの命が危ないことにもなりかねない。きり丸は、連れが待っているからとその場を引いた。人ごみに混じってしまえば、追いかけられはしない。
夜明けから雨が降り出した。
きり丸は床を抜け出し、旅の荷物をまとめていたが、ふと手を止めて縁側を見遣った。踏みしめられた赤土の縁の下から、季節はずれの蒼い朝顔が茂っている。伸びやかな蔓の先には、収穫を迎えた稲穂が頭を垂れている。霧のような雨脚が、静かである。昨日までの蒸すような暑さが、まるで嘘のように今朝は妙に涼やかだ。武田は天竜川を意地でも渡って攻勢に出る。徳川は、早々に浜松へ逃げ帰るだろう。武田が墜ちるのも、時間の問題だろうなときり丸は独白した。返る声は無い。彼は足音も無く、無人の庄屋の離れから帰途に着いた。
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